【ご冗談でしょう、ファインマンさん】好奇心をもって生きることの楽しさ
人は誰だって楽しく生きて行きたいと思うはずだ.
何に楽しさを見出すかは人それぞれであるが,一生を通じて楽しく生きるにはどうすればいいのか.
こんな問いにきっと,この本は答えてくれる.
- 作者: リチャード P.ファインマン,Richard P. Feynman,大貫昌子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2000/01/14
- メディア: 文庫
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ファインマンは量子電磁力学への貢献により,シュウインガーや朝永振一郎と共にノーベル物理学賞を受賞した物理学者である.
しかし,彼の業績は他2名のものとは異なり,経路積分やファインマン・ダイアグラムといった,それまでの量子力学の枠組みに囚われない,いわばファインマン流の量子力学を構築した点にある.
ここではファインマンの具体的な業績に言及することはしないが,なぜ彼が,ある意味では異端な業績を残せたのか,それは彼の,一般がイメージするようなステレオタイプの科学者らしくない性格に依るところが大きい.
この本はファインマンによるエッセイで,彼が何を思い,考え,感じて生きてきたのかを物理学との関わりを通して生き生きと描かれている.
冒頭の,どうすれば一生を通じて楽しく生きることができるのか,という問いに対する第一の回答は,楽しさを作り出す側として生きることだといえるだろう.
だが,どのようにして楽しさを作り出す側に回ればよいのか.
それは,好奇心をもって生きることだと思う.
この本は,何事にも好奇心をもって生きていくファインマンの楽しさを存分に感じさせてくれる.
では,好奇心をもつとはどういうことか.
好奇心とは,云わば,何事も自ら確かめる,ということである.
好奇心をもって生きるということは,つまり,何事も自分で考えることだ.
人は自分で考えているようで,実はそうではない.
人間の思考には常識というフレームワークがあって,その範囲内で物事を判断している.
人は自分で考え,判断することを嫌う.
その方が安心だからだ.
自身の行動や発言に責任を持つことを恐れ,常識というフィルタを通しておくことで,"皆"と同じだからと責任の所在を不明にし,上っ面の安心感を得る.
この気質は至る所で見られると思う.
自分自身にも思うところはあるはずだ.
この本では,【いんげん豆】のエピソードで,「小利口」な人間が如何に変化を嫌うのかということが書かれている.
このエピソードは,僕自身非常に身につまされる気がして,読むたびに常識に囚われていないかを自問自答する.
僕としては,常識に囚われて生きることこそ,楽しさを損なう一番の要因であると思うのだ.
【下から見たロスアラモス】は,上巻のハイライトエピソードの一つであると思うのだが,ここでファインマンは考えることをやめてしまうことの恐ろしさを,原爆開発のエピソードを通して如実に語っている.
少々,ネガティブな内容になってしまったが,この本の主題は,常識に囚われず,常に好奇心を持って考え,行動することで,どれほど人生を楽しく生きてゆくことができるか,といったものだ.
それは,時に悪戯で現れたりする.
【二人の金庫破り】や【国家は君を必要とせず!】は悪戯のエピソードだ.
国家レベルのことでも如何に常識に縛られていることがよくないかを見て取れる.
日本に関わる話もいくつかあって,例えば【「ディラック方程式を解いていただきたいのですが」】 では,ファインマンが日本語の習得に苦労するエピソードだ.
ファインマン自身は日本をたいそう気に入っているが,日本語だけは性に合わないとバッサリ切っている.
ユーモラスなファインマンだが,自然科学に関しては,一貫して誠実な態度を貫き通している.
一見対照的のようにも思えるが,両者は,物事を常識で判断せず,自ら考え行動することで納得するという軸がある.
【誤差は七パーセント】なんかは,専門家に於いても,如何に前例に囚われているかをよく表していると思う.
【本の表紙で中身を読む】は,オススメのエピソードで,教科書を書いている人々は本当に教育をする気はないのだなと思わされる.
ラストエピソードの【カーゴ・カルト・サイエンス】はそんな似非科学の恐ろしさと,それを盲信する人々の蒙昧さが浮き彫りになる.
研究は楽しいことばかりじゃあないし,辛いことの方が多い気もする.思いついたアイデアは既にやられていたり,せっかくやった実験も意味がないデータだったり,研究とは関係ないところで無駄に時間を取られたり.
そういうときにファインマンを読むと,元気が出る.ファインマン自身も物理が楽しくなくなった時のことを語っているが,そんな時に出てきた言葉がとても印象に残っている.
いくら人が僕はこういう成果をあげるべきだと思いこんでいたって、その期待を裏切るまいと努力する責任などこっちにはいっさいないのだ。そう期待するのは向うの勝手であって、僕のせいではない。
高等学術研究所が僕という男をそれほど買いかぶったって、それは僕の罪ではない。
また,楽しく物理をやることに関しても以下のように語る.
前にはあんなに物理をやるのが楽しかったというのに、今はいささか食傷気味だ。なぜ昔は楽しめたのだろう? そうだ、以前は僕は物理で遊んだのだった。いつもやりたいと思ったことをやったまでで、それが核物理の発展のために重要であろうがなかろうが、そんなことは知ったことではなかった。ただ僕が面白く遊べるかどうかが決めてだったのだ.
この言葉は,壁にぶち当たった時に勇気をくれる.
研究は,自分が楽しむためにやるものだ.人の期待になど答える必要はない!(もちろん,学位取得のためにある程度は成果を残さなければならないが)
もし誰かが,落ち込んでいたら,ファインマンのこの言葉を思い出してほしい.
あなたが,科学者でないとしても,この本はあなたに,楽しく生きて行けるヒントをくれると信じている.